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のら

『のら犬・のら猫』
のら_f0236873_154399.jpg前回につづき鴨居羊子のエッセイ集です。
展覧会で鴨居羊子の絵を観て興味ひかれたモチーフに「動物」がありました。とりわけ犬や猫。
1枚2枚観た程度では分からなかったかもしれませんが、5枚6枚、9枚10枚と観ていくうち、彼女の動物に対する思いがちょっと普通ではないことに気づきます。
カワイイとかスキという域をはるかに超えています。

街の角で彼らに行き交い、親しく話し合い、そして別れるという人間と動物の交わりは、いつも対等で平等で愉快である。

鴨居さんには会社の行き帰りにいつも気にかけている野良の犬や猫たちがいました。
「友達であり、同士であり、家来であり兄弟」
そんなまなざしの持ち主が書いたこの本の中では、動物たちはみな表情が豊かで、にんまりと笑ったりしています。犬なのに小さいながらに女らしさを持っていたり、哲学者の面持ちをしていたり。
                            まるで人間のよう!

昭和のはじめの頃は野良が多くいた時代で、犬捕り犬殺しが盛んに行われていました。
社会の秩序を保つために。
それは文化的な行為なのか?という彼女の言葉には怒りと哀しみと失望がありました。
仲良しだった犬たちも捕まり、事故や病気で動物たちは次々と死んでいきます。
生きている鴨居さんはときにはラブレターのように、ときには涙にぬれながら、けものたちとの日々を書き溜めていきました。

野良がすきなのは、自活して生きる彼らとしか話せないことがあったからなのでしょう。
物理的な距離ではなく、心の距離で関係を測ります。
だから目の前から消え去った動物たちのことを想いつづけ、目の前にいる動物たちを飼い慣らそうとか支配しようとはしません。

動物と仲良くなるためには秘訣があって、まずわざと相手を見ないのです。逆に相手に自分を観察させ、自分にスキを作ります。そうすると動物たちの恐怖感や疑念が薄らいでいくそうです。のら_f0236873_10113871.jpg
動物には、人間と違って何の言い訳もごまかしも通用しないし、
彼らの拒否には絶対的なところがあります。
だからこそ魂が触れ合ったときのよろこびといったら・・・

「わたしのものよ!」
# by iftuhsimsim | 2010-07-02 09:39 | 渡り鳥の読書

アヴァンギャルド

『女は下着でつくられる』
アヴァンギャルド_f0236873_10522972.jpgジュリア・チャイルドがフランス料理でアメリカの家庭料理に革命をもたらした1960年代。ほとんど同じ時代に日本で女性意識に革命をもたらした人がいました。
最近展覧会に行ったこともあり、彼女の本を立て続けに読んでいるので、ちょっと無理やりの(渡り鳥読書)バトンパスですが、鴨居羊子のエッセイ集をご紹介します。

3年くらい前に職場の上司と「いま読んでいる本」の話をしていた時、私は森茉莉のエッセイを読んでいました。すると翌日、きっと気に入るよと言って貸してくれたのがこの本でした。

本書は、鴨居さんが駆け出しの新聞記者だった頃のことにはじまります。小さな夕刊紙。社の一人ひとりがそれぞれの分野のすばらしい専門家であり、「真面目に」ではなく「真摯に」仕事するそんな大先輩たちから多くを学びました。彼女の「本質を見抜く姿勢」「クリエイトすること」の原点がここにあるようです。

しかし昭和20年代、大新聞が一匹狼の記者たちを飲み込んでいきます。彼女も大新聞に移ることになりますが、記者が頭脳のペンからただのペンになり下がった時代だと言っています。
そしてある日、ヤメタ!と記者生活に見切りをつけ、いよいよ下着デザイナーとしての一歩を踏み出すのです。

宣伝のための個展、斬新なファッションショー、PR映画などなど、それまでの日本にはなかったような方法でビジネスとアートを融合させていきます。
「質が高くて小さい“ロンドン・タイムス”のような会社」を理想に掲げ、デザイナーとして、商売人として、ひとりの女として、時代を鋭く見つめています。

この自らの半生を綴った彼女の文章は、笑いあり涙あり、と言えるほどすっきり単純ではありません。
まっしぐらに突き進んでいくたくましさの一方で、繊細な感性を持っている。あっけらかんとした陽気な性格でありながら、かなしい経験を背負っている。
カモイヨウコという人のなかで渦巻いているたくさんの感情が、読者の心をざわつかせます。

タンスに青春をしまわないで、今日青春を謳歌し、明日それを捨て去るためにケンカをした。
その人生のなかでたくさんのものを捨ててきたのだろう。
あえて文章に書き残さなかったこともたくさんあるのだろう。
彼女がまとう自由に、そんなことをちらりと感じたりします。
# by iftuhsimsim | 2010-06-27 11:54 | 渡り鳥の読書

前衛下着道

前衛下着道_f0236873_938622.jpg川崎市岡本太郎美術館で、鴨居羊子の展覧会が開催されています。彼女の作品をこれだけ集めた展覧会は関東では20年以上ぶりのようです。
私は数年前に鴨居さんのエッセイを1冊読んだことがあるだけなのですが、それだけで彼女の名前は強烈に記憶されました。

ジャーナリストから下着デザイナーに転身、メリヤスの白い下着しかなかった時代に、新素材のナイロンを使って斬新な色とデザインの下着を日本に誕生させた人物こそ彼女なのです。昭和30年のこと。女性意識の革命を起こしたとして一躍時代の寵児となりました。

展覧会では、鴨井さんの絵がかなりの枚数飾られていました。同じモチーフを繰り返し描いているのが印象的です。とくに心惹かれたのものの一つにオフィーリアがありました。

『ハムレット』の悲劇のヒロイン、オフィーリアの死の場面をかたどった絵が複数描かれています。棺の中でじっとしている女性(自分を描いたのでしょうか)や、棺ごと川に流されていく場面など。
でも絵を見た瞬間、私が思い浮かべたのは詩人テニスンが詠った『シャーロットの姫君』でした。シャーロットの姫君もよく似た入水の場面を持っています。かなしみに狂って死んでいくオフィーリアよりも、恋焦がれて死んでいったシャーロットの姫君の方が、私の頭の中ではカモイヨウコのイメージに合っている気がしました。


「シャーロットの姫君」は塔に閉じ込められ呪いを受けたために、外の世界を鏡を通してでしか見ることができません。ところがある日、鏡に映った一人の騎士に恋をするのです。死ぬと分かっていながら掟を破り外の世界を直接見てしまいます。「恋のために」とよく言われますが、シャーロットの姫が渇望していたものは自由だったのではないかと、なんとなく思ってしまいます。恋は引き金になっただけで。死のような長い人生よりも、一瞬の本物の生のほうを選びとったのではないか。文字通り命をかけて。
前衛下着道_f0236873_8383454.jpg
鴨居さんがのこした言葉からうかがい知れる価値観や生き様にはそんな雰囲気があります。



ただやはりカモイ絵画はオフィーリアを思って描かれたのでしょう。オフィーリアのことを書いた短い文章も残っています。鴨井さんがどんな思い入れを持っていたのか気になるところです。
絵には潔い孤独がありました。
# by iftuhsimsim | 2010-06-24 10:32 | 美術館

阿蘭陀とNIPPON

阿蘭陀とNIPPON_f0236873_9474174.jpg阿蘭陀とNIPPON_f0236873_9494512.jpg渋谷にある“塩とたばこの博物館”に行って来ました。

明治から昭和にかけて製造されていたあるタバコのパッケージを探しに行ったのですが、ついでに観てきた企画展がおもしろかったです。

鎖国時代、西洋で唯一の交易国だったオランダと、唯一の窓口であった長崎。当時の交易にまつわる貴重な実物資料が展示されていました。当時もたらされた西洋文化の数々が日本の文化や学問に与えた多大な影響、また長崎が担った役割の重要性を考えさせられます。

知らなかったのですが、オランダ東インド会社(VOC)は世界初の株式会社なのだそうです。財力的な危機にあったオランダがアジアからの香辛料の利益を展望し、人びとから資金を集めて航海したのが発端でした。ヨーロッパの国々がこぞってアジアやアフリカにのりこんでいった時代のことです。

ちなみに日本初の株式会社は丸善です。明治という激動の新しい時代、「人の教育と命」を念頭に西洋の薬品や医療機器、書物を輸入し、やがては万年筆などの洋品を次々と日本に紹介していきます。

人を惹きつけるビジネスが、「お金のため」だけでは実現しないのは昔も今も同じだと思います。
現代に新時代を築くとしたら、どんな形があるでしょうか。
私にとっては新商品よりも新システム、「社会貢献」がいま気になるキーワードです。


話がそれましたが、この展覧会で興味引かれたのがもう二つ。
ひとつは、エンゲルベルト・ケンペル著『日本誌』。"S"が"f"そっくりの書体だったこと。1700年代のSはこう書くのか?(あとから少し調べてみると、18世紀ごろ、積分記号の∫のような書体が特定の地域で確かに使われていたようです。)

もうひとつは、日本画で描かれたオランダ人の絵です。2枚並んでいるうち一方には「阿蘭陀人」、もう一方には「紅毛人」と文字が書きこまれていました。何か使い分けがあったのでしょうか?
(こちらも後で調べると、「紅毛人」は元々北欧人を指していたのが、後にオランダ人に対して使われるようになったとか。日本にやってくる西洋人がオランダ人に限定されてしまった歴史的背景がうかがえます。)
# by iftuhsimsim | 2010-06-21 11:53 | 美術館

教えるということ

『My Life in France』
教えるということ_f0236873_131526.jpg前回の本に、アメリカのとある料理番組のことが書かれていました。ジュリア・チャイルドの番組です。彼女の番組の魅力は失敗すること。最初から上手くいく人はいませんよ、と堂々失敗して見せるのです。それに比べて日本の料理番組は絶対に失敗しないか、またはタレントさんを引っ張りだして面白ろおかしく始めてしまう。教える番組ではなく、ただ見せる番組になってしまっているのでは、と心配されての話題でした。

ジュリア・チャイルドといえば、映画 Julie & Julia ですね。まだ観ていないのですが、映画が公開されてから、彼女はなんとなく気になる存在でした。

この本はジュリアの自伝です。おしゃべり好きでエネルギッシュな彼女らしく、かわいた明るさがあります。

34歳で結婚、36歳でフランスに転居、フランス料理に魅了され、37歳になってたまたま参加したコルドン・ブルーの公開授業で天職に出会います。
自分の店を出したい。最初それは漠然とした夢でしたが、学校で講師に習い、家で復習や試作や研究を地道に続けていくうち、夢が予定に変っていきました。ただし「店」はレストランではなく、料理学校となって。

彼女は「教えること」に非常に長けた人で、やがて料理本の執筆にとり憑かれていくのですが、学校にしろ執筆にしろ、どうしたら飽きさせず分かりやすく正確に伝えられるかを考えつづけていました。

アメリカに帰国後、アメリカ人に向けた料理本"Mastering the Art of French Cooking"が刊行するや評判になり、テレビの30分番組の企画が出てきます。この番組はメディアにおいて素人のジュリアがホストにもかかわらず、生放送のようにノンストップで収録されたといいます。起こりうることをそのまま放送した方が、はるかに学ぶことが多いはず。失敗を修復する方法を学ぶのが料理のコツであり、喜びであり、修復できなかったらニッコリ笑えばいい。彼女の番組は調理を楽しむレッスンでもあったのです。

人生、何事も考え方次第。
失敗談や困難な状況もさまざま記されていますが、ジュリアはどんな時も前へ前へと突き進み、結局すべてを楽しんでいるような気がします。

「変化が人生におけるスパイスなら、私の人生にはスパイスが多すぎる。カレーだよ。」
"A Curry of a life"
ジュリアの夫ポールの言葉がいい。
# by iftuhsimsim | 2010-06-19 09:31 | 渡り鳥の読書